第9回
日本美術
 

私はこよなく日本美術を愛しているが、

世界的な視野に立って

わが国の美術品を観察すると

どこかおかしい。

古九谷の皿が数億、鍋島の皿五千万、

井戸茶碗数億。

骨董ではないが魯山人の金彩の

ぐい飲み10客2500万円、

富本憲吉の小ぶりの徳利800万円、

板谷波山の瓶一億、

書画に至っては何でこんなものが

5千万も6千万もするのかと

思うようなものが山ほどある。

この辺りがなんとなく

胡散臭い匂いのするところだ。


日本美術も早晩世界の骨董と

価格面で比較調整される局面が

必ずあらわれてくるように思われる。

これは何も骨董だけのことではなくて

現代美術においても同様である。

世界的に名の知られた画家の作品より

日本でだけしか通用しない

画家の方が高価だという例が

わかりやすいかもしれない。

骨董にも同じようなことが

いくらでもある。

骨董は好きな人が自分の感性で

買うので値段などはどうでもよい

と言うような

小さな枠の中で見ていられる

時代ではなくなっているのだ。

たとえば法隆寺の

百万塔の例をとってみよう。

これは世界最古の木版印刷陀羅尼経の

おもちゃみたいな

印刷をしたお経を中に入れて

轆轤で削り上げた五重塔である。

美術的にはたいしたことが無いと思うが

なんと500万もするというのだ。

同じような時期に作られた

カンボジアの石彫の4面に

仏陀が刻まれた素晴しいストゥーパが

70万円くらいである。

ガンダーラのブロンズ舎利容器や

タイの黄金の舎利容器は

時代がやや下がるが

それでもせいぜい2、300万円

くらいのものである。

こんな比較は少々

無理があるかもわからないが

日本のコレクターは

結構海外の作品にも目を向けつつあり、

あまり付加価値をつけすぎると

美術そのものが夢の中の

出来事になってしまう。

そして本質を見る鋭い目が養われなく

なってしまうのではないだろうか。

今までは日本骨董業界は

非常に鷹揚な顧客と狭い商習慣の中の

道具屋が緊張感無くやってきたのだが、

ボツボツそんな時代では

なくなりつつある。

グローバルな世界の中で耐えうる

日本骨董や、美術を再構築して

本当に意義ある日本美術を

評価しなおさなければならない。

素晴らしい作品を見出していくのは

コレクターだけではなくて

骨董屋の重大な使命のように思う。

反面、世界水準で見ても安くて

値打ちのある作品もあるのだが、

そんなものは評価されなくて、

どんどん捨てられたり

壊されたりしてしまっている。

たとえは日本の木工作品、着物、喫煙具

家具、灯篭のような作品などは

住環境の変化によって

少なくなってしまった。

それらは世界水準より

遥かによいものであった。

高価なわけのわからない絵画や焼き物、

意味のない伝世の道具より、

よほど安くて蒐集の魅力に

富んだものがたくさんある。

たとえば陶磁器にしても

幕末の地方窯の作品などには

素晴らしいものがまだまだ眠っている。