パトナの南東にあるナーランダの遺跡は 5~12世紀にインド北東部に仏教が最後に栄えた地とされている。 7世紀前半には玄奘三蔵もここに来て学んでおり、 彼はそのことを大唐西域記に記している。 玄奘はインド各地を歩いており、 アジャンタの石窟寺院では 入り口の像の彫刻について述べている。 「ナーランダでは各地の僧が集まりその数、数千に及ぶ」と説く。 「皆才能があり、学問にも秀でている」とも記している。
今でもインドを旅すると下痢をしたり、 トラブルに巻き込まれたりで苦労する。 一流のホテルに泊まり、一等寝台を使って アルコール綿で食器を消毒しても大変だ。
玄奘は灼熱の砂漠、凍てつくヒマラヤの峰、 暴力のみが解決の手段である、そんな状況を乗り越えて 数万キロの旅をした。 思うに玄奘三蔵はテレビや劇で見るようなひ弱な男前でなく、 物凄い大男で筋肉隆々とした 眼光鋭い僧であったのではないだろうか。
時代はやや下るが、 この一帯はパーラー朝が8世紀から12世紀に掛けて 栄えたところでもある。 パーラー朝はガンジス河下流ビハール州とベンガル州にまたがり、 バングラディッシュに掛かる地域に勢力を張った。 この時代には石彫以外にも ブロンズなどの作品が数多く作られている。 仏教も変貌を遂げており、 密教の広がりとともにグプタやマトゥーラと違って 彫像も密教像が展開されている。 パーラー仏教の影響は北進して チベットやネパールに広がってゆく。 そしてチベット仏教の造詣の基礎をなしてゆくのだ。
9、10世紀頃から チベットへパーラー朝の僧たちが移り住んだ。 12世紀、仏教が北部インドで衰退してゆくと ネパールやチベットにその繁栄が移る。 さらに草原を駆け抜けて 中国北部から蒙古に掛けて独自の広がりと発展を見せる。
この地方の石材は黒色玄武岩とグレイの砂岩が用いられている。 パーラー朝の殆どの作品は浮き彫りとなり、 生き生きとした初期インドの古典的な美しさからは遠ざかり、 形式化された硬い作行きとなっている。
|