30年ほど前、大阪心斎橋の小さな民芸店で パプア・ニューギニアの面と出会い、 ショックを受けた画家がいた。 以後プリミティブ・アートのとりこになり、 彼のコレクションは中南米からアフリカ大陸までも網羅した。 面や食器、人形や鈴など手当たり次第に買い捲った。 当時はそんなに高価ではなかったので、 瞬くうちに家の中が雑多なもので埋め尽くされてしまった。
奥さんからは 「島津さん、あの変なものだけは止めるよう アドバイスしてください」 とまで言われた。 中には死者の上に被せる布があって、その体液まで付いていた。 僕もそれを見て思わずぎょっとなったことがあるが、 先生は知らん顔をしていた。 「キミィ、集めているうちは天国にいるのと同じだね。 どこにいて誰と話をしていても熱い思いが 身体中に充満しているんだ。 プリミティブ・アートが発する熱風だね」 といわれた。 そんな収集が続くうち、とうとう病が高じて 先生は美術館を作ると言い出した。
家族一同皆大反対だったらしいが、 明治生まれの先生はそれらの反対をものともせず実行に移された。 彼は画家の傍ら事業もやっていたので結構実行力と金があった。 土地を買って倉庫を作り、収集は一段と加速した。 プリミティブ・アートも、その頃には多くの人に注目され、 結構良い値が付くようになった。 僕など骨董屋の癖に、プリミティブ・アートは良いとは思うが 積極的になれなかったので、 先生から再々「買って来い」とはっぱを掛けられた。
その後、彼の事業の方が厳しくなり 突然収集作品を手放すことになってしまった。 「君、残念だけだけれどコレクションを手放したよ」 「それで売れましたか?」 「ウン、あれだけのものを理解する人、少ないねえ!」 というからかなり損をしたのだと思っていたらその逆で、 買値の十数倍で売ったそうだ。 しかし、先生の思いは「100倍くらいだ」というから びっくりした記憶がある。 それに倉庫にしていた土地が思わぬ値上がりをし、 これからもかなりな利益が出たらしい。 その売上で事業の損を清算されたと聞いている。 1984年ごろのことだ。
このタイプの最も良い例が浮世絵だろう。 陶磁器の包み紙だったものが、印象派の画家たちに見出された。 そして欧米の人たちにコレクションされ、 今では天文学的な数字になっている。 同じような例で 写真機、蕎麦猪口、ブリキのおもちゃ、エトセトラ。 要はいいアイテムを人より早く見つけ、コツコツやることだ。 でもマッチのラベルや牛乳瓶の蓋ではダメですよ。 今僕はとてもよいものを見つけている。 へへへ。
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